全体という虚

 1980年代はIBMの時代だった。

 シエラ、3090大型コンピューターは都市銀行(メガバンク)13行のうち11行のメインフレームになった。日本の財布は米国ブランドになっていた。

 IBM社内のレガシーワードは大文字で書かれた「THINK」。創業者トーマス・J・ワトソン・シニアが1915年に唱えた

 

 1997年アップルコンピュータは”think different”という名コピーを生んだ。

 一度は追われたアップルを七色のiMacで再興させ溜飲を下げたスティーブ・ジョブス。その後はiPhoneで多くの日本人が知る人となった。まさに自身を体現するようなコピーだった。

 

 “think”は「考える」と和訳されるが、一般的には頭、つまり脳で考えるということなのだろう。

 

 そしてAIの時代。

 ” Don’t think feel”というキャッチが亡霊の如く立ち現れる。驚異的に進化するAIでも感受性はない。感じることがいまのところできないAIへの人間の最後の抵抗といったところなのだろう。このフレーズはブルースリーの映画「燃えよドラゴン」(1973年)でも使われていた。近代化の盲点ともいえよう。

 

 いずれにしても“think”「考える」と”feel”「感じる」の対比はよくされる。

 

 さて、ここからは「動法」の話。

 

 動法は全身の動きだ。

 

 動法は無論外見の動きを指してない。

「動き」という所作そのものは視覚できないものだ。

 

 全身で考える。

 全身で感じる。

 

 ここでいう全身とは一体なんなのだろう。

 ここでの身体としての「動き」は同一のように思える。

 

 身体の稽古をするものとしては三手目が欲しい。

 

 “think”でも”feel”でもないもの。

 A third thing that is neither "think" nor "feel"

 

 

 さて、日本文化の本質には「全体」という概念があるように思う。

 

 かつてアップルコンピュータには”Bento”というプロジェクトがあったように記憶している。

シリコンバレーの人々は日本に来てお弁当をみていたく気に入ったのだ。

当時の彼らのランチボックスは必要最小限の単品を実用的にパック化したものだったと思う。

でもお弁当は違った。

 お弁当という「全体」は単品の寄せ集めではなくお弁当ならではの美しさを、価値を新たに作り出していた。明らかに食べ物を寄せ集めただけのようには感じ得ないものに仕上がっていた。

 腹は食物によってのみ膨らむものではない、食欲をそそらられ、満たすものは画一的なものではない。いわゆる消化器系の臓器だけで食することはなんと無機質なことだろう。という今では忘れさられたかつての常識。

 

 そういった風土は医術でも、芸術でも、庶民の生活でも日本文化の一端として少しばかり残っていると思う。

 身体も同様で、全体として観た身体は、一般的な西洋的価値観である局部の合算された身体とは全く違った器となって立ち現れる。

 例えば、眼は身体全体としての見るという機能のエイリアスにすぎない。眼だけを研究しても人が、見るという行為、動法がしていることは掴み得ない。

 

 かつての日本の身体観の肝は全身を身体の感覚として二重に捉え、さらにその感覚を身体に限定せずに物理的な体をはみ出した社会、身体感覚に反映させたことにあると思う。

 それは全身を認知感覚の器に加えた身体感覚で二重にあわせて拡張したもの。器という刺激に対する反応ではなく、しみじみと身体で感覚されたものは「虚」という実質を伴わない余韻ともいえよう。

 

 なぜそれはできたのか?

 かつての社会は物質に満ちた社会ではなかった。貧しくとも生きていくためにはそうせざるおえなかったのだ。元来の日本文化は、貴族や武士階級にあるのではなく、厳寒のなか、ひもじいなか、さまざまな病のなか、生きていかなければならなかった庶民、民衆の生きるための方便だった。

 

 生きていくために生存文化として積み上げてきた「虚」という社会感覚。

 

 例えば身体は空の青さや月の薄明かり、花の美しさや虫の鳴声などと同化し、境界で隔てることなく、自身の生きるチカラに変容し共有してきた。

 

「今夜はいい月ですな〜」

「ほんまに」

 暗闇を仄暗く照らす月は我の一部と化す。

 

 僕らは全体を全身だけで捉えきれない。

 全体は全身をはみ出て「虚」として浮遊しているのだ。

 

 かつての「哀しみ」を観ながら今夜は盃を三杯。

 無論、私とあなたと社会に。

 

 全体は私の体でもあり、他者でもあり、空でもあり宇宙でもある。土でもあり、海でもあり、地球でもあるのだ。軸を変えてみれば現在でもあり過去でもあり未来でもある。全体という身体感覚がある限り身体から無限に広がっている。

 

 だから

 

「考える」や「感じる」の向こうにある日本文化には無限の可能性があると思う。

 

 僕らは生きながらにして身体まるごと社会的存在であった。

 

 原点である身体は自・彼・社会をクロスオーバーし連綿と生きてきた。

そしていま息づいている命も枯れることなく次の世代に引き継がれていく。

 

 分離した「虚」という「全体」は過去を含有し未来を予感しながら、そこはかとなくあなたを包んだり、そばを漂っている。

 

【補記】

 このエッセイを書き始めたのはちょうど一ヶ月前くらいだった。何度か書き直していくうちに内容は膨れ上がり、「全体」を扱うこととなり、ついには僭越ながら「虚」まで扱ってしまった。

 「虚」という最重要テーマを一番熟知されていたのは、私の知る限り野口晴哉先生だったと思う。先生は人生をかけて「虚」を指南されておられた。

 そしてそういったことや、ここで扱った「全体」や「動法」を教えていただいたのは私の師匠である野口裕之先生である。野口裕之先生の教えを受けるのは大変でもあるが最高に楽しい。私の身体観の源流には野口裕之先生のお考えが確実にある。

 私のような書生がこういったことを語り得るのかという気持ちが大だったのではあるが、自身の解釈を言葉で語るということも大切な修行ではないかと、自分勝手に解釈し、ここにエッセイをアップさせていただくこととした。

 多々解釈違いもあると思うが、どうかご勘弁願いたい。

 

 なお、もし上記のような身体観にご興味をお持ちであれば身体教育研究所野口裕之所長自らが語られる公開講話の参加を強くお勧めしたい。現在、初めての方が参加できるのは年三回と限られているので、身体教育研究所各地の稽古場、そして駒込稽古場でその一端をお知りになることも可能である。

 

2022/2/22 Sosuke.Imaeda