子供の頃、彼は忍者部隊月光のヘルメットを被り、プラスチックの刀を背負ってテレビの主人公になりきって遊んだ。
その遊びへの誘惑は強く、夢中になればなるほど、自分の身体は上の空の状態になった。
きっとそういうのが気持ちよかったのだ。
いつだって多くの少年は時に何かに憧れ夢現に振る舞う。
やがて少年は青年になり大人と呼ばれるまでなった。相変わらず映画俳優や文化人、武士などになりきって、社会を生きぬいてきた。
虎の威を借る狐とも思える人生。
変身し、自身を生贄として君主に捧げる。それが心地いい彼の安全地帯だった。
40代後半のある夜、彼は身体教育研究所で野口裕之先生の講話を拝聴した。
体という器について無為に感じていたことを言葉で聞いた。
精神とは別に身体がある。身体は触れられない。そんな言葉に、これまで共に成長してきたその存在に目をくれなかった自分を恥じた。
さて
自分の理想になりきり、世の中を浮遊するか、地味ではあるが、大地に足を据え、身体を感覚し生き抜くか。
彼は外目には鈍臭く、理解され難い後者を選んだ。
身体は天から与えられた唯一のギフトだ。
どんなに老いても身体を慈しむのは自分以外にしかできない。
他者が自分のために食べることはできないのと同じように、自身の力で消化する以外ないのだ。
そして彼にとって最も不思議だったのは、内観し自身を慈しめば、不思議に相手も自身を慈しむようになることだった。眼に見える世界の裏側で、人々は相互に内観し関係を結んでいるのだ。
逆も真なり。周りが酔えば、シラフの自分も酔い、周りが腹一杯になれば、自分も腹一杯になる。それは気持ちの問題だけではない。身体もそうなっている。
古人たちは、厳しい気候や食糧難の時代も、そうやって力強く、横社会をつくって生きてきたのだろう。そうでなければ氷河時代を生き抜いてきたいまの僕らはいない。
身体の世界では、身体に回帰することが、相手を大切にすることになるとは思いもよらなかった。
ならば、思いだけではなく、身体が身につき復興すれば、少なくとも自分を取り巻く世界も変わっていく。彼はそんな妙なことを考えるようになった。
「少年よ大志を抱け」
北海道大学(旧札幌農学校)にはこの言葉を語ったクラーク博士の銅像がある。
これまでの彼は、大志を容易に想像できたが、大志は精神として抱き、身体は留守宅のままだった。
精神だけでは世界は回っていない。
Sosuke.Imaeda 2025/1/18