鎖骨3ミリ

 老人は一人溜息をつく。

 (本人は高齢者とは思っていないようだが、国は彼を前期高齢者に指定した)

 

 60代中盤を過ぎた頃から、歳を取るごとに色々なことができなくなる。

 

 膝が痛くなったり、爪が剥がれたり、足の裏のできもので歩けなかったり、目が見えなくなったり。耳が遠くなったり。。。

 もうどんどんどんどん普通に出来てたものが、出来なくなり、「若さ」というものは大変なことだったんだとやっと気づく。

 

 人には「何かができるようになる」という喜びがあると思う。それは身体を使うことでより顕著になる。

 

 例えば、ほんのちょっとでも鎖骨が動くことにそれを保持することに成功すれば、周りを捉える感覚が変わる。

 客観的には外部世界は変わっていないけれど、内部世界、つまり自身は大きく変わって感じられる。

 

 人が客観的に生きることは不可能だ。

 生きているものにとって、客観だけでは生存できない。

 そういったことは、これから来るAIに任せとけばいい。

 

 一方、主観というものは、主観というやつは、どうも精神に偏りすぎて身体が疎かになる。

 

 ならば、

 内観に従って生きるのも一興ではないか。

 そう思った時、老人の鳩尾が緩まった。

 

 内観は誰もが持っている能力だけれども、奥は際限なく深く、活用することで生活の質を限りなく深めてくれる。

 老いれば老いるほど内観の深みを味わえる。内観を通して、全く気づきもしなかった新たなことが体験でき実際に身体は変わる。

 それは純粋な喜びだ。

 

 不自由さが悪なのか?

 静が動を発動し、制約が何かを育成する。

 つまり老いもそんなに悪いものではない。

 自身の身体に戻るために、いまこそ制約なく広がりきった若気の至りを萎ませようではないか。

 

 ほんの3ミリ鎖骨の内観を動かせばいい。

 世界はきっと変わる。

 

2025/2/5 Sosuke.Imaeda