「動法」を何か体操のように考える方がいると思うが、そうではありません。
「動法」とは、自分の身体の裡の動きを観察しその動きと同化し身体を精錬させていくことです。
動きというのは変化とも言い換えられます。
静止している状態も、何かを生起させようとして静止しているのか、何かを孕んでいるのか、はたまた凍結してしまっているのか、そういったものも含めて動きと見做します。
近代以前、科学技術がこれほど発達していなかった頃、日本の大地に住む人類は「自然」と真剣に向き合ってきました。
時には猛威を振るう「自然」と対峙し、時には夜空が作る静寂な「自然」に孤高を味わい、時には神の恵みとしての秋の豊穣に「自然」を欣び、
生存していくこと、子孫を残していくことと、つまりこの身体を大地に残していくために自然と適合し、生活していくことは不可分同一ものでした。
日本での生活システムの特色は、数々の書物でも触れられているようにユニバーサルな絶対的な神を中心としたピラミッド型の生活集団ではなく、
小規模なコミュニティをいくつも作って、その生活空間特有の、自然を見つめ、崇め、恐れ累々と生活するものでした。
私たちの身体の歴史は「自然」との対話により練り上げられてきたものであり、
精神ではなく、知識でもなく、身体そのもののが自然と対話し、同化してきたことにより私たちの身体に埋蔵されています。
そこには累々と積み上げられてきた、知恵が埋まっています。
凍土に埋まっているなら、それを溶かしてしまえばいいでしょう。
そこには祖先が見た空があり、地があり、夜もあり、月も浮かんでいるでしょう。
般若心経の中に「無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法」というくだりがありますが、太古の昔、それら人間の外部に対するインターフェイスの機能は
もっと混濁していて、境界ははっきりしていなかったと思います。
要素である何かが集まり、動き出し、やがて外界を感じる原型ができます。
原型は分裂を繰り返し、合理的な世界の知覚方法として視覚とか、聴覚とか、嗅覚、味覚、触感などを機能として身体に装備、分化していったのではないでしょうか。
中世以前、縄文以前から、人が作り上げてきた身体は過去の集合体であり、人類の叡智、遺産です。
しかし、近代化が始まると、つまり頭脳の中でロジックを磨けば磨くほど、社会が便利と言われる様相を呈せば呈すほど、
是として崇め創造を重ねてきた「精神」とそれに隷属する「科学」が、漆黒の闇からジワジワと我々の身体に忍び込み大きな「?」というシャボン玉をそこかしこに産みつけていきました。
さて、近代に生きる我々はこの「?」をどう取り扱うか。
その答えとして、身体という生きるためのオリジナル母体を再度見つめ直し、練り上げていく機会・方法論が必要なのではないでしょうか。
「動法」はラジオ体操ではなく、ましてや筋肉リラックス運動でもありません。
あえて私なりに解釈すれば、「動法」は人間という生きるものへの回帰法であり、地球規模に広がっていく、資本主義と科学の時代の新たな魔法に対峙しつつも、近代という魔物に飲み込まれないため、脱近代の時代をつくる、つまり、新たなリビルドのため、再生し復活するための、未来へのチケットとなる身体動作技法なのです。
2018/1/1 sosuke imaeda
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