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わたしにとって天啓だった動法

生まれてから、当たり前のように思っていた。

自己と身体の一致現象。

時より幽体離脱だとか、金縛りだとか。

そんな話に改めて身体というものを考えたりはしたのだが、まあ、それっきりだった。

 

動法の稽古の中では、「双」という世界を扱う。

自己だけではなく、他者(自然)と共に動く。

そこには一定の技法があるのだが、中には初心の方が相互で普通にできるような稽古も多い。

 

稽古をすると自分だけでは限界だったことが、あっという間に打ち破られる。

そんな時、自分のコントロールを外れた身体が他者(自然)と密接に関係しているということをいやでも実感する。

 

私は、長い間、一人で身体と一体となって当然のように生きていると思っていた。

社会からは、自分のことは自分でやりなさいと教わってきた。

人からの、そして自己からの多くのプレッシャーを一人で受け止めてくれた私の身体は、いや、私のものだと思ってきた身体は、ガンバレという声を背に、暗闇の中を迷走し、妄想し、気ばかりが、胸へ、首へ、頭にとどんどん上がっていき、上半身は硬直していった。

そして、それこそが苦楽の勲章であれ、老であると思い込み、自己を納めていた。

 

 

そろそろ独り相撲は限界だな、もう、いいやみたいに思っている人にとり「動法」は天啓のように思える。

少なくとも僕にとってはそうだった。

 

「動法」は人に寄りかからない、しかし、遠く過去から連綿と続く何かや、他者(自然)と共に動く。

自然を尊び、その一員として、人生を全うするための基本となる規範である。

 

「よくよくあなたがたに言っておく。

一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。

しかし、もし死んだなら。豊かに実(身)を結ぶようになる。

 

(ヨハネによる福音書。第1224節)

「カラマーゾフの兄弟」序文(原卓也訳)

 

2018/1/14 sosuke imaeda