思えば長い道のりを歩いてきたように思う。
自分の中に深く染み込んでいるものを一つ上げると「ねばならない」という考え方だと思う。
いつからそんなふうに思い出したのかはわからないが、物事には道理があり、その底辺には「ねばならない」があった。
「風の又三郎」とか「寅さん」なんかが日本で人気があるのは、多くの人がそのような教育で育ったからのように思える。「なんとかなるさ」という曲もあった。あれを作った人も飄々としていた。誰もがどこかで「息抜き」を欲していた。
平安や室町の世はどんなだったんだろう。
明日はどうなるかわからない、来年は飢饉になるかもしれない、そんな生命と背中合わせの日常。
「ねばならない」のベースには安心、安定があるように思える。
身体に行き詰まった時は、そんなことを考えるのも一興だ。
事が起こるまえ、「ねばならない」と無意識に感じるだけでも身体のどこかは強張っている。
単に想像しているだけなのにだ。
事自体より、ことに対する感受性が身体を作り上げていく。
そしてそれが累積して、老いた今の身体がある。
「動法」の要点に「脱力」がある。
筋肉、関節、靭帯、骨、血流、水分、リンパなど身体の構成要素から脱力すると、何かから開放されたような、空気とひとつになったように思える時間が訪れる。
「丹田」の一点だけは集注を抜かない。
身体教育研究所の一つの脱力方式だ。
能書だけでは現代に生きてはいけない。強張ったからだをより強張らせ踏ん張って生きていく。そんな時も必要だろう。
でもそこに「脱力」という身体技法があれば、まだまだ身体は復活して活きていけるように思える。
だから僕は稽古を続けるのだろう。
2029/2/9