余韻

 私は音楽が好きだ。

  しかし美術の方が才能があった。と思う。

 もちろんいまやその才は微塵もない。

 

 幼稚園の時ヤマハの音楽教室に通っていた。

 和音が得意だった。どんな複雑な和音も聴くと即一発で分かった。

 

 高校生になってバンドをはじめたのだが、自分のヴォーカルとエレキギターの演奏に決定的に違和感があった。

 それが何に起因するのか当時わからなかった。

 

 バンドは演奏を始める前にチューニングをする。楽器の音合わせだ。当時はチューニングマシンではなく、音叉のA(ラ)の響きをベースに六弦のチューニングをした。Aが合えばあとはハーモニックスで合わせる。

 

 ハーモニックスが合うと心地がいい。

 

 ピアノで楽典の基礎を知っていた私は、弦楽器を扱ったことがなく、音叉を叩いて最初に流れるカーンという音にばかり注目していた。でも身体から意思が離れるような訪れる心地よさはどうもそこにはないように思えた。

 それがなんであるかわかったのは身体教育研究所で稽古をはじめてからだった。

 

 全ては音の響きが消えてから始まっていたのだ。

 「余韻」がもたらす空気が身体をおおっている。私は音が消えたら、何かが身体に生まれているということを気づけなかった。

 

 高校時代も大学時代も私の演奏には余韻がなかった。私は見えてるもの、聴こえているものだけを追い、私が私であったのは私が一生懸命に頑張る姿だった。私のオンパレード。

 

 

 若さにまかせた気合いは秋になったとはいえ少々暑苦しい 草

 

 秋の夜は菊の花を傍に、静寂な月の余韻を感じて眠りにつきたいものです。

 

重陽の節句(菊の節句) 2024/9/9 Sosuke.Imaeda