亡くなった大好きなアーティスト、三十年近く前にテープが擦り切れるほど見た動画を見るととても不思議だけれどもその人がこの世にまだ生きているように感じる。
おそらく身体が当時の息吹を記憶していていまでもそれが蘇ってくるのだ。
でもその人を感じる私は年老い変わった。同時に当時と同じようにその人を感じてはいない。
その人は私の記憶の中で一緒に時を過ごしてきた。
以前から為政者たちが銅像を作るのを白い目で見ていた。趣味悪いなぁと思っていた。形骸化したものとはいえ、死後も自分のコピーみたいなものが、残滓のようにこの世に残るのが悪趣味のように思えた。
いい加減現世から解放されたいという気持ちが自分には強かったように思うし、いまでもそうだ。
人は歳をとるとともに根拠のない自信を打ち砕かれていく。
身の程を痛いほど知るのだ。
人は「永遠」という言葉に一度は憧れる。「永遠」は「拘り」とも言い換えられる。
朽ちることのない生物はいない。
新鮮な食物はすぐ腐るし、冷凍すればいいとはいえ、解凍すればもはや同一のものではない。
一方、出会いについて、出会った人の思い出を持っている人がいる限り、その人のなかで出会った人は生き続けるという言葉を、慰めの言葉と思いつつも、なんとなくこだわっていた。その意味が分かる年になった。
私が銅像は忌避して、思い出は語るに足ると思うのは、銅像は不動だが、思い出はそれを持っている人の中で移り変わるからだ。
変化する生物としての思い出は、人が生きていく力を喚起するものを持っていると思う。
変化する力が生きるトルクを生む。
写真やビデオに記憶された思い出は変化しない。それは私にとっては銅像をみるのとそれほど変わりがない。単なるノスタルジアだ。
法律や契約が変化しては社会が成り立たない。約束が変化したら約束にならない。ニュースが変化したら洒落にならない。ただ、私たちは平気で歴史を改竄し社会を形成している。
身体に関して言えば、変化していく思い出と寄り添っていけるから、思い出はよき伴侶となり、厳しい現実を生きていく要素としてきた。
かなり前に卒園した幼稚園に行ったことがある。目の前の庭や楽しく遊んだ砂場があまりに小さくてびっくりした。
目を閉じると僕の中にある幼稚園はキラキラしていて、目の前にあるリアルな幼稚園はなんだか空々しかった。
リアルは体験には追いつけない。
生の体験は「いま」を刻々と刻み、それは身体で勝手に昇華し変容していく。その変容体こそが僕らの毎日に寄り添い司ってくれる。
一人では生きていないのだ。
2025/3/2 Sosuke.Imaeda