外に向かう瞳と中に向かう瞳

 外界の刺激に慣れすぎた生活を送ってきた。

 

 振り返ってみると、私の育った時代は(つまり昭和)テレビの時代だった。

 年少の頃から、テレビのブラウン管の前で、朝から晩までテレビを見ていた。

 自分の感覚なんて、育ついとまはなかった。テレビが面白すぎて、囚われていた。

 

 学生時代に内省という言葉を覚えた。同時にアイデンティティという言葉も覚えた。内省はなにか辛気臭く、かつて日本人にはなかったというアイデンティティにカッコ良さみたいなものを感じた。まぁ  今でも内省という言葉は表面的な感じがして反省と同じくらい好きじゃない。きっと頭の中だけのイメージが付いてしまっているんだろう。

 

 今の自分はエビデンスという言葉やアップデートという言葉が嫌いだ。既存のものから脱却するためには外に見られる前例に囚われたくない。そういった言葉を聞くととなんだか興が醒める。それらは外に向いた言葉のように思う。せめて、ポテンシャルやリセットという言葉に置き換えたい。

 

 若い頃は鏡を見るのが好きだった。今は、鏡はほとんど見ない。なんだかそこに自分がいないような気がするからだ。というかその行為により自分から離れていってしまうような錯覚に陥る(正確にはここにある身体の感覚から)

 

 今でもテレビで身についた外に向かう習性はなかなか立ちきれない。

 大好きな子供達。外の出来事、そして外からの目を意識するのはずっとずっと大人になってからでいいのではないかと思う今日この頃である。

 

 昭和にはやった「自分探しの旅」という言葉、どんどん外に向かって視野を広げていく。若いうちは見聞を広げるのは大事なことだと思う。

 

 そして、壮年となり、かつての自信はどこへやら、だんだんと根拠のない不安が広がり、なんだかわからないボーダーラインに立っているように感じだして、そんな時に中に向かう大きな力を知ったのは、身体教育研究所で稽古を始めてらからだった。

 

 外に、外に向かったぶんだけ、空虚になったなかを息づかせるために、満たすために。今日も私は稽古をしている。そして、わざわざ来ていただく方に、どんなふうに稽古を組み立てれば、どのような集注で操法を行えば、中に向かう素晴らしさを知ってもらえるのだろうか、自分という者の手応えを感じてもらえるのだろうか、身と体と分離した自由を、身に体をつける人生を体得してもらえるのだろうか。

 これまでとは全く違った新しい自身を経験をしてもらうため試行錯誤は続きます。

 

2024/7/21 Sosuke.Imaeda