失われていくアナログの世界

 チャットGPTが使えるようになって、よりAIが身近になった感がある。

最近の学者はAIに職域や人間存在が脅かされてきたという話が出ると身体論を持ち出すことが多くなっていると思う。

 もしかして身体教育研究所のやっていることに近づいてきているのかと聞いてみると梅干しをみると酸っぱいと脳が感じるみたいな話で、まだそこかとガッカリしてしまう。

 

 先日、稽古仲間とリモート稽古した時に、ギターの弦の響きがスマホから全く聞こえなかったことに衝撃を受けた。

 そうか、デジタル化により音声圧縮すると会話のない空白や、会話の意味に関係ない弦の音は記号化されて全く送られてないんだ。

 電気通信の専門だった私が、もう何十年前から知っていたことを改めて思い出した。

 

 テレビを見ていると昔のロック少年(今は老年)が語っていた。

「今は、音が本当にきれいに粒立ち、各パートの演奏もよく聴こえるようになった。でも昔のようにガーンと音楽がまとまってぶつかってくる爆音感覚はないんだ」

 

 音楽がまとまってガーンとぶつかってくる爆音感覚って!?、でも確かにそれがないからどんなにいい音響のホールや、反響のないドームみたいなところでも、なんだか面白くないと感じるんだ。

 いうまでもなく、私の言っているのは、音の大きさではない。

 かつて映像にも仕事上かなり関わり、ソニーなどの技術者にもいろいろ教わったが、NTSC(アナログ)がHDになり、4Kになり8Kになって、スタジアムの観衆の顔一人一人の顔がわかったりしても、

映像機器を欲しいと思わなくなった理由がわかった。

 

 身体教育研究所で稽古する集注は、ゆがみ、ズレが集注を呼ぶというのが原則だ。

 間引くということこそが、集注を生むのも自明の理だ。周りをぼかすから、集注点が生まれる。

 デジタルだって世界中のインテリがどう情報だけを取り出し、無駄なものを間引くかを考え抜いてインターネット生まれ、AIが生まれた。

 しかし、間引く対象が全く違う。逆と言ってもいいだろう。

 

 デジタルでデリートされた存在の亡くなった部分に身体を震わせ、感動して生きる喜びを体験した自分にとって、

 必要なものを過度に際立たせ、情報として無駄だと切り落とされたものは、論理的であり、合理的ではあるが、頭だけがフル回転し、焼き切れていくように感じて魅力を感じない。

 

 近代科学が進むにつれ、デジタル化が進み、最も相性がいい必然性として、必要なものだけを明確にし、情報とならないものを切り落とした環境に取り囲まれた時代。身体がなくなっていく時代だ。

 

 インターネットによって世界中が繋がるようになった。そう、情報で。

 でもでも、原始の時代から身体は世界中で繋がりあっていたんじゃないだろうか。そう、ある種の身体感覚で。

 

 目に見えるもの、はっきり伝えるもの。そこに視点をおかなかった日本文化は今でも多くの海外人に、いや日本の文化人にも誤解されているように思う。

 情報を伝えるという側面の言葉は、時代により定義をどんどん変えていってしまう。

 例えば「整体」や「精神」という言葉は百年前とは全く別の意味をなしている。

 しかし、音としての身体経験は変わらない。身体に刻み込まれ、百年後に生きている人がフッとそれを感覚することがあるだろう。

 もちろんここでいう音はデジタル時代には不要となった部分の音のことである。

 

 身体が伝える世界が、もう一つあるなどということはもはや御伽話のようなことになりつつある。

 

2023/8/8 Sosuke Imaeda