私の手に自由を

 私は個人教授の稽古中に「この手はあなたの手なのですか」と質問することがあります。

 「手の操作から離れて下さい」と言っているのですが、より手を精密に操作しようとされている方が多いので、そのことについて少々書いてみたいと思います。

 

 

 赤ん坊が不思議そうに自分の手を見ている。それがなんだかわからないようだ。根元に遡れば自分の体に突き当たるのだが、空間に浮かんでいる物質のように、不思議そうに手をみている。そしてある時、その手を動かすことと自分の意思との連動性に気づく。手は自分と「つながっていたのだ」。大人になるにつれ自分の手を動かすコツを習得し、器用に手を動かすようになる。

 社会性を持った手の誕生である。

 それ以来「この手は自分の手なんだろうか?」という疑問は封印されてしまった。

 私の手と思っている私の客観物。私の操作により従順に動く手。もし故障して私の思うように動かなければ、私は私の一部であろう手に憤る。

 

 でも、果たして手は客観物として私に従属しているのだろうか。静かに耳を澄ますと手は手自身で呼吸している。私という人格があるならば手にも手格というものがありそうなものだ。手をまるで自分の一部のように操作する私は手格を無視しているとも言えよう。もし手が自由を求めているとすれば、解放された手はどのように動くのだろうか。

 

 そして、手に自由があるとすれば、体だって自由があるはずだ。器としての体が、意思から解放される自由。

 

 きっと、手だって、体だって、そして少々人生に疲れてきたあなたにだって、もう一歩踏み出さなければならない時がくる。操作というものに束縛されない存在に戻る、そんな稽古をした時、体は原点に帰る。誕生時、分離された身と体は結びつき生命となったのだ。

 

 身体が操作されることから解放された時。原点に立ち返った身体は再度息吹を取り戻し、私たちはもう一歩前に踏み出す勇気を得る。

 

2024/8/4 Sosuke.Imaeda