前 其の一「予感」
二度と逢うことはないと予感しながら、「また会おうね」と友達と別れたことはないだろうか。
私と身体はそんな関係だった。
身体教育研究所と出会うまでは。
いくら老いても、身体はいつも私とともに存在し、目を背けることは私の大きな何かをもぎ取られるのに等しい。
前 其の二 問答「ある老人の呟き」
「私は子供の頃から、身体に不足の部分があり、それが負い目で、なんとか変えたくて、変えたくていろいろなことを試し生きてきました。しかし何をしてもそれは悪化はしても治りはしませんでした」
「それはお気の毒に。。。」
「私は身体教育研究所での稽古で、それを治すのではなく、全く予期しない形で転換することを学びました。そして、体は自ら整う体を想定し作り上げなければならないということを知りました。ただ、漠然と教えてもらおうとレッスンを受けても体はテコでも動かないのです」
「!!!」
「身体感覚は前近代へ向かって、未来を志向しながら生きる」
駒込稽古場では、身体教育研究所で開発・稽古された動法と内観を両輪として、身体感覚にアプローチしています。
それは他にはない全く独自なものです。
身体感覚とは何かといえば、生命が生命たりえるために集注という行為を無自覚的に行っている感覚だと思います。
稽古では体を刺激することによって、何らかの効果を出そうとすることはしません。そんなことをしても刺激が過ぎ去った後はすぐにもとに戻ってしまい、さらには強い刺激を身体は欲しがるのが関の山だと思います。
それでは何をやっているかといえば、身体が身体であり続けるために、身体内の感覚にフォーカスし、動かし、響かせる。そういう稽古をしています。
自分一人の感覚などはあり得ないのであって、人は他者や自然と関係しながら自己となり得るための何かを集注しながら生命活動を営んでいます。よって自己の中、その深き感覚と外との関係性を軸として稽古をしています。
「そこには知覚し得ない広大な荒野が広がっている」
稽古人は知らない感覚に出会うたびにワクワクしその身体は感覚の転換により一歩進み、自らの世界が変わっていきます。
十人いれば、十色の身体感覚があり、その差異は見た目の差異よりもかなり大きいです。
「人はこんなにも違う世界を生きているんだ。ならば知らない世界に没入すればいい」
駒込稽古場では、部屋が茶室に似て大きくないこともあり、じっくりと時間をかけてマンツーマンで体の身体感覚を練磨し、伝え合う稽古ができます。
個人教授は自分では気づき得ない身体感覚との遭遇による、自己力の拡大。操法はこれまで体験されたことのない精密さでの身体感覚との同調、同化による身体の新たな局面への展開を志向しています。
「大人は変わるために、自己を変えるために生きているのだ」
後 其の一 「茶」
茶室のような。。。
お茶の作法の稽古をする度にいつも思う。これはおいしいお茶を客人に振る舞う儀式なのだろうかと。おそらく本来あった姿は、「茶を喫する」という行為を通じた作法により主人と客人の無言の対話。
「主人と客人が身体感覚を響かせ、第三の感覚世界を作り得たら」茶室から一歩踏み出した時、刷新された身体は意志とは離れ歩き出す。「茶室に踏み入れた茶人は別人になって茶室を出る」
後 其の二 「竹藪」
秋の六義園は美しい。
入り口付近にある小さな竹藪。思わず竹に触れようと、掌を伸ばし竹に近づけば近づくほと、そこには竹に喩えられた未知の感覚が宿っている。 「10m,1m,10cm,1mm,0.1mm,0.01mm,0.001mm,0.0001mm…..」
身体感覚が近づけば近づくほど、その未知の空間は深まる。距離が近づくにつれ、集注は深まり空間は広がり、時間が間延びする。
到達とともに景色は一変し、目の前にあるのは竹藪を吹き抜ける一陣の風。
微かに残る余韻。
後 其の三 「料理」
埼玉の夏は暑い。
祖母が台所で料理を作っている。まな板からコトコトと野菜を切る音が聞こえる。祖母にしかできない味。いつかは食べられなくなる煮物料理。僕は六畳間の丸テーブルで妹と待っている。料理の匂いから始まる、口に含んだじゃがいもの感触、喉を通り過ぎる熱さが食道をゆっくり降っていく。食感は胃の中に徐々に広がり、満たされ、やがて胃の中を動いて広がっていく。1ミリ1ミリ満たされていく食の感覚。
突然、カーティンから差し込む光。その眩しさに僕は目が眩む。
Thank you for reading this far.
Have a nice day !
「あなたにとって佳い1日を!」
2023/9/14 sosuke.imaeda
Copyright(c)2017 今枝壮介 身体教育研究所 All Rights Reserved