自分という巨大な謎

 誰もが自分のことはそれなりにわかっていると思っている。と思う。

 どれほど自分のことをわかっているのだろうか?

 自覚の世界ならまだしも無自覚の世界に入ればとんとわからない。

 

 日常でもある時間帯になるとなぜか体温が上がったり血圧が上がったりする。眼圧だって始終変化している。体温計など機器を使ってその変遷を知ると、自らの体感との違いに驚くことが多々ある。

 

 自分の身体は自分がいちばんよくわかっていると多くの人は思っている。

 ちなみにどこで思っているのか?

 簡単に言えば頭で診断しているに過ぎない。

 その優れた比較ver.はもっぱらAI的でもあろう。

 

 主語は多分に頭脳的だ。

 

 思い切って主語を自分の頭脳から、身体に移してしまえば、自分の身体は違った景色を見せてくれる。

 近代人はこれがむずかしい。

 なぜなら物心ついてそんな経験を感受する教育を受けていないからだ。

 朝から晩まで、他動的な情報に操られる体は頭脳から出発してしまう。

 

 かつて日本人は、明治維新以前の話だが、主語に重きを置かなかった。identity という言葉を和語で持たなかった。

起こっていること、動いている気配それ自体に自身を投影し生命の躍動を感じとっていた。身が自然に没入していったのだ。

 自然と共に動き、感じることこそを生きる喜びとしてきたかつての私たち。

 

 維新以後、文明開花の名の下に主語がないと落ち着かない世界が始まった。

 自分探しの旅などと称して、自分を定義したいという気持ちは、生きる本質みたいなものを萎えさせていると感じるのは自分だけではないだろう。

 

 すでに断片になってしまった身体にかすかに残った身を感じる感覚。私たちはそのわずかな震えに共鳴し感動する。

 

【後記】

 

 なぜだろう。

 ストレスがたまったり、精神的に疲れたりすると主語を明確にしたくなる自分がシャシャリ出てくる。そしてそれは被害者意識やマイナスの人間関係に発展したりする。

 

 そんな時のわたしは、日本文化を生んできた主語から離脱した浮遊している喜びや悲しみをキャッチすることはない。

 

 人々は主語から離れてしまえば、世界は一変し、自然呼吸すら困難になった世の中の様相は大きく変わって観えるだろう。

 

2024/9/13 Sosuke.Imaeda