言葉で伝える危うさ

 時代によって、言葉は生まれ、既存の言葉の意味も変遷していく。

 また、専門分野になればなるほど、使われる言葉が限定され、一般的な使われ方とは乖離する。

 

 私が駒込稽古場で使っている言葉も、自分では何気なく普通に使っている言葉が、受け手の方に違った意味で、時には意味不明なものとして伝わっているのではないかと申し訳なく思ったりする。

 

 自己満の世界を少しでも逸脱するために、稽古用語の解説集みたいなのがあった方がいいと思うのであるが、なかなか手につかないというのが実態です。

 

 ここではよく稽古でもお話しさせていただく言葉を取り上げてみたいと思う。

 

 「精神」という言葉の意味の変遷についてです。

整体協会の創始者の野口晴哉先生の本にはよく「精神」という言葉が出て来る。

先生が使われた昭和初期、精神という言葉には、意志という言葉と共に、身体という意味が多く含まれていたように思う。

 しかし、時代が進むにつれ、精神という言葉は、頭で発生するものに限定され、身体は精神から分離されていった。精神という言葉から身体を想像する人は今ではそう多くはないだろう。

 

 身体教育研究所では、あえて精神集注と身体集注と集注形態を分けて稽古を行なっている。

 精神集注とは意志による集注である。「勉強しよう」「仕事がんばろう」みたいなことを引き起こす集注。

 身体集注とは身体に起こっている集注。例えば「腹が据わっている」のは自己が腹を据わらせているのではなく、腹が腹を座らせている身体自身の集注。

 

 現代では忘れ去られた集注方式は身体集注である。

 野口先生の著書にある「精神」は身体の集注に重きを置いていると思うが、現代人が読むと精神集注として捉えてしまう。

 そこに「気」「自然」「自我」など定義の曖昧な言葉がクロスされ、言葉で伝えることは至難になる。

時には全く反対の意味に伝わってしまうことも多いだろうと思う。

 

 多くの人が使う「整う」という言葉ですら、すでに原型の意味は留めていないようにも思える。

 新しい時代にふさわしい新しい言葉を楽しみに待ちたいと思ったりする今日この頃である。

 

 

 

 身体から離れ、共通言語として記号のようになってしまった言葉を乗り越える手段の一つは実際に身体を動かして、体感することだと思います

 駒込稽古場の稽古では精神集注と身体集注の違いを体感いただきます。

いかに身体集注が身体を変えていくかというを実感を持って知っていただきたいと思っています。そして、日々の生活に生かしていただければ幸甚です。

 

 身体がすでに持っている集注を垣間感覚することは、我々の古典の身体への道標になり、未来を生きていく力を得ることにもなると確信しております。

 

★本部稽古場公開講話及び全国の身体教育研究所稽古場で身体集注を学べます。

 

2024/7/25 Sosuke Imaeda